特集: エンピツ片手にテキストを読もう

ブックガイド: 代数

「数学セミナー」2003年8月号


大型書店や大学生協の書籍部などに行くと、実に多くの代数の専門書が並んでおり、名著として知られる教科書もある。一方、いくら名著でも気に喰わない本を読むのは苦痛だから、テキストを選ぶ際には相性も重要である。結局は評判のよい本の中で、できるだけ自分に合った本ということになるのかも知れないが、この‘自分に合った本’というのが曲者である。代数を初めて学ぼうという方や代数がどうにもいまひとつわからないという方の、テキスト選びの参考にしていただければ幸いである。ただし、自分が眼を通した本もそう多くはなく、以下に挙げる本ですら隅々まで読んだわけではないことをここに断っておく。また、他の記事の内容と重複する部分があるかも知れないが、お許し願いたい。
■代数を学ぶ際の最初の‘関門’は、定義や公理として与えられた条件を論理的に正しく適用したり運用したりできるかにあると思う。これは大学数学全般における関門でもあるが、他分野に比べて代数の場合は、学問の性質上、初学者の前に特に大きく厳然と立ちはだかっている。今でこそもっともらしい顔をして理工学部数理科学科で代数系科目の講義を担当しているが、学部1、2年生の頃の自分は関門の存在などつゆ知らず、代数がきらいになってしまった:代数の本を読んでみて何となくわかった気にはなるものの簡単な練習問題すら解けず、たびたび打ちのめされてしまったからである。想い起こしてみるとその頃は、代数を初めとする大学数学の内容を、論理的に把握するのではなく手探りで多くの例などから知ろうとしていた。だから無味乾燥な定義・定理の羅列ではなく感覚的イメージで理解を促そうとする啓蒙書風のテキストが良いテキストで、自分に合っているのダと思い込んでいた。今から考えると自分のようなすぐにわかった気になるメンタルに軽くて薄い早合点人間にとっては正しい理解を妨げる有害図書の観すらあるのだが、当時はこの点になかなか気付かなかった。例はもちろん大切で、定義の意味、定理の内容や使い方そしてその限界を知るのに欠かせないことは言うまでもない。さまざまな味わいを持つ例が豊富に載っていることは良書の必要条件と言ってもよい。しかし、その一方で、代数は特に、イメージに頼らずに抽象的に概念をしっかり把握することが大事であり、少々逆説的に聞こえるかも知れないが、肝心な部分については曖昧なイメージを削ぎ落としてはっきりと抽象的に述べられているテキストの方が結局は理解しやすい。
◆関門突破には、たとえば次のような方法がある:定義や命題、定理は自分が理解している言葉でノートに書き直してみる。証明については、テキストの行間を埋めて論理的飛躍の無いように、やはり自分の言葉で丁寧に書いてみる。テキストをただ書き写しては何にもならない。自分の頭で考えて自分の手を動かすことが大事である。一つのテキストを選びそのような作業を地道に続けていると、「あ、そうか、そうやればよいのか!そういうことなのか!!」という‘覚醒の瞬間’が必ず訪れる。すると、それまでモヤモヤしていた抽象の霧(実は、曖昧のスモッグ)がサーッと晴れて、まだまだ数学山脈の麓の付近をうろうろしているレベルかも知れないけれど急に視界が開けたような気分になるものである。
■代数を学ぶ上での次の関門は、同値類や商集合の概念そして準同型定理(の証明)を理解できるかどうかにある。準同型定理は一度理解してしまうと自明なこととしか感じられなくなるが、これを理解できるかどうかは代数の世界に分けいれるかどうかの境目である。この関門をクリアしてしまえばあとは頂上までスイスイ行けるというわけでもないが、たとえば学部2年生程度の代数なら準同型定理をきちんと理解できれば文句無く合格である:「オマエはそんなに低いココロザシで教育を行なっとるんか!××××っ!!」という罵声叱声が新宿区大久保近傍から飛んで来そうであるが、たとえば線型独立性の概念を獲得せずに数理科学科を卒業してゆく学生が少なくない現実を直視すれば、これでも『久遠の理想』とは言わないまでもかなり高い理想である。ともあれ、代数を初めて勉強するならば準同型定理の部分が丁寧に書かれているテキストを選ぶとよい。
★それで、最初に読むのなら、たとえば、

松村英之: 代数学 (朝倉書店)

を薦める。先に述べた第一点目についてはしっかりと書かれた良書が他にもあるが、第二点目についてはどうだろうか。たとえば自転車は、一度乗れるようになると以前はなぜ乗れなかったのか思い出すことすらできなくなったりする。これは、準同型定理の理解と状況がよく似ており、一度理解してしまった先生方による執筆のためか、入門書ですら肝心の部分をさらっと書いてあるだけのテキストが少なくない。一方、松村氏は、自分のような者が記すのはとても畏れ多いのだが、日本が世界に誇る超一流数学者である。にもかかわらず、というより、だからこそ‘まだ自転車に乗れない人達’のことをないがしろにしたりはしない。氏の「代数学」では、『同値関係、集合論的準同型定理』というセクションを設けて準同型定理の仕組みを詳しく述べている。これほど紙面を割いて丁寧に解説しているテキストもなかなか見あたらないようである(ただし、この本で扱われるテーマすべてについて同程度に詳しい解説がなされている訳ではない)。
●このテキストの他の特徴を簡単に幾つか述べる:ユニークで面白いと思ったのは、イデアルの計算例として多項式環での計算が挙げられている点である。実際に自分の手を動かしてできる具体的計算はハマると結構楽しいものがある。また、この本特有というわけではないが、ある程度、群・環・体の基礎を固めてから再び群に戻る、いわゆる『スパイラル方式』の構成となっており、初学者には無理がないように感じられる。そして、代数幾何学の章で締めくくられているところが何とも素晴らしい。
◆松村氏の「代数学」に関して特筆すべきことはまだまだたくさんあるだろうがこの辺で止めて、最後に一言:代数自体が面白くてたまらない、群論や環論などが好きで好きでたまらない、というのなら何も言うことはないが、代数を一生懸命勉強してみてもあまりに抽象的で一向に面白くなってこないという方もいらっしゃると思う。しかしそれは、よほどの代数フェチでもない限り当然で、不思議でもないしそれを悩む必要もない。そのような方は、代数を勉強する際それ自体が面白い対象であるハズだというような幻想はさっさと捨てて、代数はただの道具と割り切るのが良い。しかし、何に使うのか、何のゴリヤクがあるのかわからない道具をただいじってみても面白くないだろう。だから、そこは啓蒙書でもよいから覗いてみて、代数が華々しく、または、縁の下の力持ち的に活躍している場面をときには先走って垣間見るのも良いだろう。そもそも代数は、高度に抽象化されているからこそさまざまな分野に応用できるのであって、代数の本領・威力が発揮されるのは整数論や代数幾何学などを初めとする他の分野、他の問題に応用されたときだと思う。
★「代数はスゴイ!」と、代数ぎらいだった自分が不覚にも(!?)感動してしまったのは、

M.F.Atiyah、I.G.MacDonald: Introduction to Commutative Algebra (Addison-Wesley)

を読んだときである。可換環論の基本的事項がコンパクトにまとめられており『代数幾何学のための可換環論』の名著として定評がある。ただの代数の本と思って読むなら面白くも何ともないかも知れないが、Spec のマジナイを唱えつつ読むと、脳裡に幾何的実体が立ち上がってくる仕組みの、これは、いわば‘ヴァーチャル飛び出す絵本’である。 [2003年5月30日]


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