有馬哲先生の思い出原 伸生 |
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有馬哲先生は(私の知る限りでは)寡黙な方でした.しかも,私が初めてお会いした時点で既に体調を崩されていたこともあってか,いつも囁くような小声で話 されました.先生がおっしゃったことが聞き取れずに何回も聞き返したことがしばしばあります.私が先生に直接セミナーで指導して頂いたのは最初の半年余りで,その後も先生との会話は他の弟子に比べても少ない方だったと思います.とはいえしかし,先生の少ないお言葉の幾つかが私の進む道に重大な影響を与えたことは間違いありません.記憶の糸を辿ってそうしたことについて書いてみることにします.
邂逅: 初めて有馬先生にお会いしたのは1988年の秋だったと記憶しています. 早稲田の修士過程へ編入学することになり約束した時間に有馬研のドアをノックすると中から勢いのある感じの若い助手らしき人(今思えば楫元その人に違いない)が現れてセミナー中の先生がいる部屋に案内してくれました.そのときの面談で,先生は御自分の研究が代数幾何から相対論に移行していること,その二つの分野のセミナーをみておられることなどを説明され,テキストなどを見せて下さいました.このとき印象的だったのは,言葉は囁くような小声で聞き取りにくかったものの,数学の話をされる先生の目が,眼鏡の奥でちょっと悪戯っぽく楽しそうに,そして数学をやりたいという私の心の奥を覗き込むような感じで語り掛けてきたということでした. セミナー風景: かくして私は有馬研で,森本貴志さんと共に Hartshorne のテキストを勉強することとなりました.他の人も書いていることですが,有馬先生は学生を褒めて encourage する術に長けておられ,我々二人も競って難しそうな練習問題を解いて発表し,例の囁くような声で 『二人とも良く出来ます』といったお言葉を頂戴したりしました.先生は,当時私と同学年だがHartshorne のテキストに関しては一年分先を学習していた大野真裕,松原隆両氏と松村著 『可換環論』の導分のところを読むことも勧めて下さいましたが,彼等の Hartshorne のセミナーに合流することに関しては 『あの学生達は良く出来るから(ちょっと無理ではないか)』と言葉を濁されました. 先生の言葉に救われた: 結局,私は修士編入の遅れを取り返すことができず, M2で結果を出すことは出来ませんでした.修論提出期限も近いある日,鉛のように重い気持ちで先生にそのことを告げると先生は一言 『君は時間が足りなかっただけだ』と言って下さいました.このときの先生の言葉がなければ,私は数学を続けることを断念していたかも知れません.その後私はM3で修士論文を提出しました.修士論文発表会では 『(その結果は)雑誌に投稿するのか?』といっ たフォローの言葉を頂き,博士過程に進学しました.その際も,学部から数学科で安心して見ていられる森本氏を(人数の関係で形式上)他の研究室に回し,私は有馬研の院生として受け入れて下さるという配慮をして頂きました. 『ダイスウガクシャ』になれる?: 有馬先生は,定期試験の採点の手伝い,学期末の発表会(学生が研究の進行状況を報告する『査定会』とよばれていた)等, 折に触れて食事をご馳走して下さったり,忘年会(=おでんパーティー; see [楫元記,混沌への弾道])の費用を出資して下さったりされました.先生の採点を2日連続で手伝って,昨日はうな重,今日は寿司,というようなオイシイ思いをさせて頂いたこともあります.採点といえば,ここでも先生の『褒め殺し』ならぬ『褒め活かし』の術が如何なく披露されたもので,良い答案があると先生は 『ダイスウガクシャになれる,と書いて下さい』と我々に指示されました.はて,『ダイスウガクシャ』って,『代数学者』なのか『大数学者』なのか,友人が恐る恐る尋ねると答えは当然のことながら『代数学者』なのでした. 『イテー』: あるとき,採点の手伝いをしていると『どーん』という大きな音 がしたので振り向くと,有馬先生が黒板の前で尻もちをついていました.先生はバツの悪そうな顔で 『イテー』と言われました.慌てて駆け寄って助け起こしたときの先生の身体の硬直した様子から,(身体の自由が利かなくなる)御病気が進行して来ていることをひしひしと感じました.その後,安全のため大学と先生宅の最寄駅の間を送り迎えする役目を何回か仰せつかったことがありますが,この際にも,私が役目を果たせず先生が転んでしまわれて囁くような小声の『イテー』を聞いたこともありました. 卒業式でのこと: 1998年の卒業式と時を同じくして有馬先生は定年退職されました.助手室に机があるのにそれまでいつも有馬研に入り浸っていた私にとっても有馬研卒業の年といえるかも知れません.卒業式では校歌斉唱のあと全員で缶ビールを飲み干すのが恒例になっているのですが,既に御病気がかなり進行していた有馬先生も皆と一緒にこの『一気飲み』に果敢にも挑まれ,我々の制止を振り切ってむせ返りながら最後まで飲み干そうとされました.動作を中途で変更できないという医学的側面もあったのかも知れませんが,一度心に決めて始めたことは御自分が正しいと思う限り最後まで完遂しようとされる有馬先生の姿勢の表れのようにも感じられました. 上に書いたような有馬先生の姿勢(『一徹』というのともまた違う気もしますが)は多分周囲の者皆が感じていたことと思います.去年(2002年)の先生の『お別れ会』で,野口廣先生が『有馬さんは自分が正しいと思うことを人に理解させるためには何の躊躇もしない.必要と思えば例え天皇の前にでもスタスタと歩いていって直訴するだろう』といったことを話されて妙に納得した記憶があります. 有馬先生の退職後は一度,先生の愛弟子である米田元さんと病院にお見舞いに行ったのがお目に掛かった最後となってしまいました.我々二人とも申し合わせたように新しい論文をもって行ってお渡しすると,先生は時間を掛けて丹念に目を通されていたことが思い出されます. [2003/03/19] |
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