“代数幾何晩年”の有馬先生

若林直樹

私が有馬研究室の門を叩き、指導頂くことになったのは1990年の事でした。 御自身の専攻を代数幾何学から相対性理論に変えられたのもこの頃だったようで、 研究室の案内に
「私は専攻を代数幾何学から相対性理論に変えました。代数幾何を やりたい人はゆくゆくは助手の楫元らの指導を受けることになります。」
と書かれていたのを覚えています。ついでに言うと、早稲田に入学する前の年、 予備校の先生からもらった“数学セミナー”に浅枝先生との共著“ベクトル場と電磁場”の広告があったので、 物理学の分野に関心を持たれるようになったのもこの頃だったのではないかと思われます。

上記事情から掲題のテーマで指導頂いた頃の話も交えつつ、 有馬先生の思い出についてお話しさせて頂きます。

●最初の講義
最初に有馬先生の講義を受けたのは学部2年の代数学Aという科目でした。 “第1回目の講義”は独特で、今でもはっきりと覚えています。 先生は教壇から教室の中央辺りまでを往復しながら

「定義がわからないと言葉がわからない。 言葉がわからないと何もわからない。」
といったお話をされた後、 黒板に正規分布の図、両側に棄却域を書き、 さらに中央付近に斜線で塗りつぶされた円を描き
「ここ(右側の棄却域)の人は自分で学習してください。 ここ(左側の棄却域)の人は知りません。私はここの人だけを相手にします。」
と仰って中央付近の円を指差されました。

後で研究室の先輩方から聞いたのですが、 正規分布の図を描いてこの話をされるのは毎年恒例だったようです。

ちなみにこの時、何だか声が小さくて何だか字もたどたどしいな、 と思ったのですが、 すでにこの頃御病気の方が進行していた事を後で知りました。

●講義はわからないけど教育熱心
代数学Aのテキストは“詳解 代数入門”の原稿で、 講義の次の時限が講義内容の演習という形式でした。

始めのうちは講義に出ていたのですが、声がよく聞こえない上、 黒板の文字が見えないということもあって、 そのうち講義には出席せず、演習のみ出席するようになりました。 始めのうちは講義に出ない代わりに図書室でテキストを読み、 演習に備えていたものの、そのうち落ちこぼれていきましたが、定期試験前の時、

「同型定理が大事だ」
という先生の話を聞き、 同型定理(準同型、第一、第二、第三同型定理)の証明を何度も追いかけ暗記した結果、 思った以上の点を取る事が出来、それをきっかけに持ち直し、 後期の試験では赤ペンで
「ヨクデキル」
というお褒めの言葉まで頂く事ができました。 そして学部2年の終わり頃には、 「代数を専攻したい」とまで思うようになっていました。 (試験の後、内容が群から環に変わり、 類似した展開が繰り返された事も大きいのですが・・・)

テストや試験の結果は研究室まで取りに行くことになっていて、 よく友人と一緒に当時研究室のあった51号館5階まで取りに行きました。 他の研究室は通常扉が閉まっていて(少なくとも学部2年生には)近づきがたい雰囲気を醸し出していましたが、 有馬研の扉はいつも開かれており、 テスト結果を受け取るため何度も出入りしていました。 (部屋に居る間は学生が出入りしやすいよう扉を開けておくというのが先生の方針であったことを後で知りました)

というわけで、この当時は”講義はわからないけど、教育熱心な先生だな”と思っていました。

●学の独立?
前出のテストで忘れられない事件がありました。

テストの際、他人の答案を覗いているところを見つかってしまった者がいたのですが、 当然ながら先生は大そうお怒りになりました。そして最後に一言

「学の独立だ!」
と仰いました。

校歌の一節ですが、「そういう意味なのかな?」と考えてしまいました。

●相対論専攻未遂事件
一応このこともお話ししておきます。

1つ上の先輩に各研究室の説明資料を見せてもらったことがあり、 その内容を見て先生が専攻を相対性理論に変更された事を知りました。 それを見てどういうわけだか少し相対性理論を独学で勉強してみたいと思い、 参考となる文献を聞きに研究室まで行ったことがあります。 教えて頂いた本を早速生協で注文したのですが、あいにく絶版となっており、 もともと気まぐれだったということも手伝って、結局相対論に関してはそれきりでした。 (今考えれば、それならそれでまた先生に相談すれば良かったのに、と思っています。)

●一番弟子?
そんなわけで学部3年で研究室を選ぶ際、私は有馬先生の研究室を希望し、 目出度く希望が叶って同級生の河村謙治君と一緒に指導頂く事になりました。 当時、環論のテキストをまねて、何故か独学で半群を勉強していて

「何をやりたい?」
という質問に対し、 「環論と代数幾何、それに半群にも興味があります。」と答えたところ、 変な顔をされてしまったのを覚えています。

ゼミは上級と初級に分けられ、私は上級ということで学部4年で初級だった人たちと一緒に行っていました。 メンバーは本望さん、松山さん、赤堀さん、河村君、私の5人でした。 “Atiyah-Macdonald”を読んでいたのですが、 メンバーの松山さんをはじめとするメンバー同士のチェックが比較的良く機能していたためか、 あまり先生が指摘されたことは無かったような気がします。 ちなみに当時、私はゼミで世話人的立場を務めていました。 休暇中のゼミのスケジュールについて先生のご自宅に電話した事もあります。 研究室の鍵や図書室のコピーカードを預かっており、 今考えると非常に恥ずかしいのですが、 自分が一番弟子だと思っていた節があります。 (この“変な”勘違いよるプライドもマスターに進み、 もろくも崩れることになります。)

そういえば、“ヘッドギヤ”を付けられるようになったのはこの頃でした。 当時御病気は「パーキンソン氏病」だと考えられていたらしく、頂いた年賀状に

「私のパーキンソン氏病はちょっと進んでヘッドギヤなるものを付けることになりました。」
というコメントがあったことを覚えています。

前出のメンバーで“Atiyah-Macdonald”を半年ほど読み続けた結果、 最後の2章を除き一通り読み終えた為、 いよいよ代数幾何ということでHartshorneを読むことになり、 ゼミの指導担当も当時助手をされていた山脇さんに交代することになり、 直接指導頂くことはなくなりました。

●最後の思い出
結局私はマスターには進みましたが、その後民間企業に就職する道を選びました。 就職先が決まり、先生のところに報告に行ったとき、嬉しそうな表情で

「そうですか。」
と言われた時の事は今でもはっきりと覚えています。

そして最後にお会いしたのはマスターの卒業式の時でした。 学部・マスターの学生を研究室に呼び

「世間に出ると自分が頭が良かったんだなぁと解るよ。」
という有難いお話をされた後、本棚にあった養命酒を開け、 一人一人についでくださいました。

退官記念パーテイーの日、 午前中で片付くはずだった仕事がトラブル(ハードディスクのクラッシュ)で対応に追われ、 出席できなかった事を今でも残念に思っています。

お別れ会での校歌斉唱の時、音頭を取らせて頂きました。 (本当は「学の独立」の話もしたかったのですが、時間が押していたので割愛しました。) 良い思い出になりました。

[2003/03/02]


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