有馬さんの思い出

草間時武

 有馬さんが我々にのこした一番大きな功績は数学科と一般教育数学との合同です。  この二つのグループの仲の悪さはこれを体験した者でなければわからないでしょう。  早稲田に来て「これは大変な所に来てしまった」と思ったほどでした。  ですから皆、及び腰で、「有馬さんが、そんなにやりたいのなら、どうぞ」といった気持ちでした。  彼は、その発作的行動力で、学部長や数学科主任の野口先生のところを飛び回りました。  結果的には良かったわけで、 数学科の今日の隆盛は有馬さんによるところが大である事を若い方々は忘れないで下さい。  一般教育の数学からは、 高村幸男(お茶の水大へ)、草野 尚(広島大へ)、 鈴木 文夫(東京教育大へ)が去られました。  これが、その時、数学科になっていたらと残念でなりません。

 有馬さんは稀に見るタフな数学者でした。  その事は入試の採点のとき、一緒に大学の近くのホテルに泊まって判りました。  深夜まで満州から、艱難辛苦のすえ帰国した話をしてくれました。  高粱畑に身を伏せてソ連兵をやりすごした事など。  藤原正彦さんの母上の書かれた「流れる星は生きている」と同じように、 もし出版されれば、ベストセラーになったでしょう。  お子様の世話、学生のゼミの指導、講義、  沢山の本の執筆を全部されたのは、まことに、 このタフな精神力、体力のせいと思います。

 追悼会の時、杉浦先生が、学生のころ、 有馬さんから握手を求められた話をされましたが、 私も何回か握手を求められました。  多くの人がその経験をしているようです。  握手とは普通、双方が嬉しい時にするものですが、 有馬さんの場合は、彼のみが嬉しい時にも行われました。  有馬さんの人懐こさを良く表していると思います。

 一緒に歩いていて、突然

「君は毎日祈っているかい」
と云われて不意をつかれたことがありました。 有馬さんの若い頃の写真を拝見すると、 非常に近寄りがたい厳しさを感じます。  しかし晩年、特に洗礼を受けてから、 優しさが滲み出ているような顔になられました。  苦難は人の顔を厳しくするとは限らない事を良く語っているのではないでしょうか。

 ある先生が亡くなって、一人のお弟子さんが泣きました。  「先生を失ってそんなに悲しいですか」との問いかけに、 「いえ、先生と出合った幸せを思い泣いているのです」と彼は答えました。  有馬門下の方は、彼のような師と人生で出会った幸せを、噛みしめて下さい。

[2003/03/13]


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